FASHION
The Adventure of NIKE vol.01

ナイキのキセキ。 vol.01

余程の未開の地で、洋の東西を問わず他の文化圏との交流を一切行なっておらず、古来の文化を踏襲しながら独自の社会生活を形成し営んでいる民族あるいは集団でもない限り、〈NIKE ナイキ〉という名を耳にしたことがないという者は極めて稀なのではないだろうか。

ナイキは、それまでのスポーツシューズメーカーと比べ後発であったにもかかわらず、いまや世界最大のスポーツカンパニーという地位を不動のものとしている。

ナイキは、いかにしてそれを成し得たのか。

その大きな要因は、スポーツシューズを主力製品とする企業でありながら、ナイキが世に送り出しているものがファクトリーメイドのスニーカーというただの製品ではないということだろう。

ナイキが生み出すスニーカーが我々を惹き付けてやまない要素。

誤解を恐れずに述べるならば、それは「物語」だ。

よってスニーカーを取りまく、時として「奇跡」とも思えるほどの圧倒的密度をもった物語を軸に、ナイキの「軌跡」を紐解いてみようと思うのである。

コルテッツのキセキ。

世界最大のスポーツカンパニー〈NIKEナイキ〉と日本のスポーツシューズのパイオニアの〈Onitsuka オニツカ〉には驚くほど酷似したランニングシューズが存在する。

ナイキの軌跡を紐解く始点となる物語が、ここにある。

極めて酷似しているふたつのモデル

1960年代初頭、陸上用を主としたスポーツシューズの分野において圧倒的シェアを誇っていたのはドイツのメーカー〈adidas アディダス〉であった。そんな情勢の中の1962年、日本の高品質でリーズナブルなスポーツシューズを輸入販売するというビジネスモデルに大きな可能性を見出し、アディダスの独壇場に挑もうとする陸上部出身のひとりの青年が来日を果たす。

スタンフォードビジネススクールでMBAを取得したエリート、フィル・H・ナイトだ。彼は、自身のビジネスモデルを実現すべく、来日するなり日本のスポーツ用品メーカー〈Onitsuka オニツカ〉の高性能かつ低価格なシューズに着目し、なんと起業前にもかかわらずオニツカのアメリカでの独占販売権を奇跡的に獲得したという。

1964年、ナイトは陸上の名コーチにしてかつての恩師ビル・バウワーマンとともにブルーリボンスポーツ(BRS)社を設立し、アメリカでオニツカシューズの販売を開始。アディダスと比べても引けを取らない品質の良さと低価格が功を奏し、売り上げは順調、経営も軌道にのりはじめる。やがてBRS社は更なる売り上げ向上のため、よりアメリカマーケットを意識した製品開発のアドバイスをするようになる。そんな中、もとよりランニングシューズの機能向上に意欲的でありシューズの自作もしていたビル・バウワーマンは、オニツカ側にソールのクッション性向上に関する提案を行った。

そして1967年、このアイディアをオニツカが具現化し誕生したのが「Tiger CORTEZ タイガー コルテッツ」である。コルテッツという商品名は、かつてアステカ帝国を征服したとされるエルナン・コルテスに由来し、フィル・ナイトとビル・バウワーマンによって名付けられたという。

〈Onitsuka〉の「Tiger CORTEZ」(1967)。当初はメキシコシティで開催されるオリンピックにあやかり「アステカ」となる予定だったが、〈adidas〉が先に同様の名のシューズを完成させていたため不採用となった。

当時としては画期的なほど厚いソールで高いクッション性を誇ったタイガー コルテッツは、見事ヒット商品となる。

だが、順風満帆に見えた両社の関係であったが、将来に対するお互いの思惑のズレや商品納入のトラブルが幾重にも重なり、徐々に暗雲が立ち込めてゆく。

やがて自分たちの発案によってタイガーコルテッツを成功に導いたことで自信を付けたBRS社は、販売代理店業から脱却し自社でのシューズの製造・販売を目指し、秘密裏に新しいシューズブランドを立ち上げることとなる。

ギリシャ神話の勝利の女神「ニケ」にちなんで名づけられたというそのブランド名こそが〈NIKE ナイキ〉だった。

1971年、BRS社とオニツカとの溝は埋まることなく決別、とうとう両社の提携は終了する。同年6月には「SWOOSH スウッシュ」と呼ばれるロゴマークが配されたシューズがナイキ名義で販売されることとなった。

このスウッシュは、当時大学でグラフィックデザインを専攻していた女子学生キャロライン・デビッドソンによってわずか35ドルの報酬でデザインされたもので、スウッシュという呼称は「人が走り抜けてゆく時の音」を擬音化した言葉だという。躍動感とスピード感が見事に表現され、現在では世界で最も認知されているアイコンのひとつとなったスウッシュだが、当初は創業者のフィル・ナイトには不評だったというのも皮肉なエピソードである。

そして1972年、ナイキはビル・バウワーマンのアイディアで生まれたヒット作タイガー コルテッツをスウッシュをまとった「NIKE CORTEZ ナイキ コルテッツ」として発売する。

〈NIKE〉が1972年に送り出した「CORTEZ」。オニツカ製と酷似している

「SWOOSH 」は、日本では長らく「スウォッシュ」と誤って呼ばれていたが、正確には「スウッシュ」である。

つまり一時期、オニツカ製とナイキ製のふたつのコルテッツが市場に存在していたのだ。この事態は、必然的にコルテッツの商標を巡るBRS社とオニツカとの訴訟問題にまで発展することとなる。BRS社側の不利に思えた裁判であったが、1974年BRS社が「コルテッツ」の商標使用権を得るかたちで奇跡の勝訴となり決着を迎えた。

それを受けオニツカの製造するタイガー コルテッツは、商品名変更を余儀なくされ「Tiger CORSAIR タイガー コルセア」となり現在にいたるのだ。

エアのキセキ。

1970年代のジョギングブームの到来は、新興のナイキの追い風となる。ナイキは、ビル・バウワーマンがワッフルを焼く型から着想を得て開発したという逸話をもつ「ワッフルソール」を搭載した「WAFFLE TRAINER ワッフルトレーナー」を1976年に発表。

1976年登場の「WAFFLE TRAINER」

高いグリップ力、ナイロンアッパーによる軽やかな履き心地といった機能面もさることながら、それまでにないデザイン、ビジュアルから人気は沸騰。フィル・ナイトは、タウンユースも想定し、ジーンズに馴染む色味として青色の追加を指示、これがさらに人気に拍車をかけることになったという。ナイキとファッションの融合はこの頃すでに始まっていえるエピソードだ。

そしてスウッシュの認知度も拡大したこの年、BRS社は社名を「ナイキ」と改名、ランニングシューズのジャンルで快進撃を続けてゆく。

1978年、なかでもその後のナイキの更なる躍進を決定づけるイノベーションが詰まったモデルが誕生する。世界で初めて「エアソール」を装着した「AIR TAILWIND エア テイルウィンド」だ。ミッドソールにエア(空気)が注入された「エアバッグ」を搭載しクッション性を飛躍的に向上させる技術は、1977年、元宇宙工学の技師の二人によって持ち込まれたものであった。この技術に可能性を感じ採用したナイキが翌年に発表したのがエア テイルウィンドなのだ。

〈NIKE〉初のエアソールを搭載した「AIR TAILWIND」(1978)

残念ながらテイルウィンド自体は、素材面での問題からクレームも多く失敗作と取る向きもあるが、ナイキが革新的なシューズをつくり出すチャレンジ精神にあふれた企業であるという印象付けには成功したことだろう。

そして「NIKE=AIR」というイメージ付けにも、である。

ナイキの英断によって採用されたエアバックの技術だが、実は先にアディダスに持ち込まれていたものの、採用にはいたらなかったという。当時の最王手アディダスが採用しなかったエアテクノロジーが、新興勢力のナイキの爆発的な発展の原動力となってゆくというのも、歴史が織り成す皮肉な気まぐれであり、ナイキがたぐり寄せた奇跡のひとつともいえるだろう。

1:「CORTEZ」(1972)
2:「WAFFLE TRAINER」(1976)
3:「LDV」(1978)。ナイロンメッシュを採用しベストセラー。それまで筆記体だったブランドロゴがブロック体となった。
4:「AIR TAILWIND」(1978)
5:「INTERNATIONALIST」(1980)。ワッフルソールの山を大きくし、耐久性を向上。
6:「METRO PLUS」(1983)

エア ジョーダンのキセキ。

1984年、NBAシカゴブルズに入団した青年がいる。マイケル・ジョーダンである。その奇跡的な滞空時間の長さから「AIR」との愛称が付けられ、後年「バスケットボールの神様」と崇められる存在となった男である。

ナイキは将来のスター選手ジョーダンに目を付け独占契約に成功。そして1985年、同社初のシグネチャーモデルにして、のちに世界中を熱狂させることとなる奇跡のシリーズのファーストモデルを完成させる。

「AIR JORDAN エア ジョーダン」。そう名付けられた一足のバスケットボールシューズは、デビューするやいなや、色々な意味で衝撃を与えることとなる。

バスケットボールシューズといえば「白」が当たり前の当時、シカゴブルズのチームカラーとはいえ「赤と黒」に彩られたエア ジョーダンは、あまりにも奇抜であった。チームメイトが白いシューズを履く中、ただひとり強烈なインパクトの足元であったため、ユニフォームの統一性を求めるNBAの規定に抵触し、罰金を科せられたという逸話まで生んだ。

だがナイキはこの騒動すら商品のプロモーションに利用。NBAに「禁じられた」シューズとしてエアジョーダンを紹介するCMまで制作する。したたかな戦略ではあるが、ナイキのもつチャレンジ精神や反骨精神、柔軟でウィットに富んだ企業文化が垣間見えるのではないだろうか。

「AIR JORDAN 1」。1985年に誕生したマイケル・ジョーダンのシグニチャーモデルの第一弾。ブルズのチームカラーとはいえ、故意に話題性をつくりあげたとさえ思える挑戦的かつ斬新なカラーリング

スニーカーは1980年代にはすでにタウンユースされており、アスリートのためのものだけではなくなっていたが、エア ジョーダン 1はスニーカーがストリートカルチャーに浸透し、クールな存在として認められる立役者となったことは確かだ。事実、その薄いソールの履き心地がスケートボーディングに適していたため、エア ジョーダン 1はアメリカのスケートボーダーに人気となった。その流れは日本にも飛び火、1980年代末には、のちに日本(東京)発のストリートカルチャーを育み、世界中を熱狂させることになる藤原ヒロシや西山徹といった高感度でスケートボードを日常的に楽しむ者たちに支持され、日本のストリートシーンでも人気となってゆく。

1986年のシーズン2年目、ジョーダンは骨折により戦線を離脱するも復帰し、1987以降、ほぼ毎年1モデルのペースで新作のエア ジョーダンが誕生することとなる。1988年登場の「エア ジョーダン 3」からは、数々の革新的シューズを生み出し、伝説のデザイナーといわれているティンカー・ハットフィールドがシリーズのデザインを手掛ける。

1:「AIR JORDAN 2」(1987)。シリーズ2作目にして、エア ジョーダンのブランディングのため、ナイキの象徴であるスウッシュを使わないという逆転の発想でデザイン。オリジナルはイタリア製。当時は日本未発売
2:「AIR JORDAN 3」(1988)。敏腕デザイナーのティンカー・ハットフィールが加入。現在にいたるまでジョーダンシリーズのシンボルとなる「ジャンプマン」ロゴが初登場。サイドからエアを視認できる初のビジブルエアを搭載。2同様、当時は日本未発売
3:「AIR JORDAN 4」(1989)。2、3のセールスの伸び悩みを受け、当時ナイキの軽量系カテゴリー「Flight」シリーズに統合しようとするプランだったが、4はメッシュパーツの採用など先進的なデザインも功を奏し、人気モデルとなる。ただし当時は日本での正規販売はなかった

1990年、エポックメイキングとなるモデルが誕生する。「エア ジョーダン 5」だ。甲やサイド、ソールに配置されたクリアラバーやシュータンのリフレクターなど先進的なマテリアルを完璧なまでにまとめ上げたデザインでシリーズ最高峰ともいわれる大傑作だ。あろうことか、アメリカではこのモデルをめぐる殺人事件まで起こってしまったが、この悲劇がエア ジョーダンのストリートにおける人気の高さを物語っているともいえる。

1:「AIR JORDAN 5」(1990)。クリアラバーやリフレクターなど先進的なマテリアルとデザインルでエア ジョーダンの人気がストリートでも確立されたエポックメイキング的モデル。シリーズ最高峰ともいわれ、この5より1以来となる日本での正規販売が再開
2:「AIR JORDAN 6」(1991)。シカゴブルズが悲願の初優勝を果たしたシーズンにマイケル・ジョーダンが着用していたモデル。ビジブルエアの採用は6が最後となった
3:「AIR JORDAN 7」(1992)。 バルセロナオリンピックにアメリカ代表の「ドリームチーム」の一員として出場し、圧倒的強さで金メダルを獲得。ヒールにはその際の背番号「9」を配置

1993年の父ジェームズの不慮の死を受け、そのショックもありジョーダンは引退を表明。そして突如メジャーリーグへと転向する。幼い頃の夢を実現するためともいわれているが、NBAを去ってもなおエア ジョーダンの開発は継続された。ジョーダンのシグネチャーモデルでありながら、もはやエア ジョーダンはブランド化しており、その存続と次期モデルへの消費者と市場の期待を考慮すれば、当然の成り行きだったのかもしれない。

こうしてエア ジョーダンという一連のシリーズは、奇跡的なカリスマ性をもつ存在となったのだ。

1:「AIR JORDAN 8」(1993)。クロスベルト採用のなどボリュームのあるデザインは、当時賛否両論だった
2:「AIR JORDAN 9」(1993)。NBAを引退し、メジャーリーグ(MLB)にチャレンジしたため、コートでの着用がなかった
3:「AIR JORDAN 10」(1994)。1995年、NBA復帰直後に着用したモデル。MLB時代の背番号45をそのまま使用していた
4:「AIR JORDAN 11」(1995)。アッパーマテリアルに使用されたエナメルとナイロン、6以来となるクリアラバーによるソールなども相まって、白黒カラーの通称「コンコルド」は人気が沸騰
5:「AIR JORDAN 12」(1997)。それまでとはまったく異なるアプローチのデザインで異彩をはなっている

1990年代に日本で巻き起こった空前のビンテージブームおよびアメカジブームは特異だ。最新でもなく、機能面でも決して最良ではない未成熟で限りあるアーカイブにこそ「かけがえのない価値」を見出し、ひたすら追い求め、嗜好、偏愛するという日本ならではのムーブメントだったからだ。特に〈LEVI’S リーバイス〉の「501XX」を中心としたビンテージジーンズの枯渇化は顕著であった。

その動きに連動して、ビンテージジーンズと相性よくコーディネートできる程よくオールドなスタイルとビビットなカラーリングのエアジョーダン 1は憧れの存在と化す。

さらに「よりレアなスニーカーを」という別軸の欲求により、日本での正規販売のなかったエア ジョーダン 2、3、4も高騰してゆく。

ナイキの歴代のランニングシューズも言わずもがな。

ナイキの生み出すシューズは、つまるところスポーツのための道具である。だがオニツカとの提携と決別の末での創業、スウッシュのユニークな出自、唯一無二のエアテクノロジーの採用、エアジョーダンというカリスマ的シリーズの誕生など、ナイキが放つ魅力的な「物語」は、アスリートより、むしろストリートという日常に生きる私たちの心を揺さぶり、惹きつけてやまない。

そして1995年。ストリートを、いや日本社会をも揺るがすことになる奇跡のモデルが誕生することになる。

Vol.2へつづく

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